2012年2月9日

1.序論

20世紀初頭、ウクライナという国家は世界地図上には存在しませんでした。第一次世界大戦後の帝国の崩壊は帝国の旧領域内における民族的関係の変化と中央・東ヨーロッパに新しい国境線の変更をもたらしました。中央・東ヨーロッパの多くの国々は帝国からの独立し、第二次世界大戦の始まりまでその独立を維持しました。しかし、ウクライナはそのときに独立国家を建設することができませんでした。
現在のウクライナの領域は数世紀の間ウクライナ人以外の人々によって支配されてきました。20世紀における西ウクライナのリヴィフ[1]という都市を見てみるとその都市名はオーストリア・ハンガリー帝国下ではドイツ語でレンベルク、二度の大戦の間におけるポーランド第二共和国下においてはポーランド語でルヴフ、戦後のソビエト連邦支配下ではロシア語でルヴォフ、そしてようやく1991年のウクライナ独立後にウクライナ語でリヴィフと都市名が数回変わっています。2007年9月に私はリヴィフとその帰路にベルリンの新シナゴーグで開催されていた「レンベルクはどこに?」という展示を訪れました。リヴィフの都市名に代表されているようにその訪問はとても印象的で複雑なウクライナの歴史はウクライナについての研究を始める動機を与えてくれました。さらに2007年のリヴィフへの訪問は欧州連合(EU)の境界を意識させるものでもありました。私はリヴィフからバスで美しいポーランドのザモシチという町へ向かいました。リヴィフとザモシチの距離は110キロほどしか離れていませんが、その所要時間は6時間ほどもかかりました。バスはラヴァ・ルスカフレベネの間の国境検査所で3時間ほど停車しました。私は幾千ものタバコをポーランドに密輸しようとしている女性の集団を目撃し、これまでの人生で最も厳しい税関検査を受けました。この経験はEUの境界を確信させるものでありました。日本には陸路の国境が存在しないため、このポーランドとウクライナの間の国境での経験は豊かな国とそうでない国について興味をもつきっかけになりました。それ以来、ウクライナは私を惹きつけ、キエフオデッサヤルタセヴァストポリハリキフルガンスクドネツクなどその他のウクライナの都市を訪問するきっかけになりました。そして私はウクライナの歴史はとても豊かで魅力のあるものであると実感しました。これまでに数多く歴史的出来事が現在のウクライナの領域で発生しているにもかかわらず、その多くは今日、日本ではロシア史の一部として見られがちのように思えます。よって私は現在のウクライナの領域で発生した出来事をロシア史というよりもむしろウクライナ史として解釈及び焦点を合わせていこうと思います。
Szporluk教授が強調するように、ウクライナ史はロシア史への方向性で焦点が合いがちであるが、その他の近隣諸国とも結びついております。すべてのウクライナ人は1648年のフメリニツキーの乱以前はポーランド・リトアニア共和国の中に住んでいました。オスマントルコはクリミアを18世紀後半まで支配しました。19世紀にはロシア帝国とオーストリア帝国が現在のウクライナ領域を支配しました。ガリツィア地方ヴォルィーニ地方は1939年までオーストリアとポーランドよって支配されました。トランスカルパチア地方は1919年まで絶え間なくハンガリーの一部であり、その後はチェコスロバキアに編入されました。チェルニウツィー地方は二度の大戦の間はルーマニアによって支配されました。私たちが現在西ウクライナと呼ぶこれらの地方がモスクワによって支配されたのは歴史上第二次世界大戦中及び戦後だけです。ひとつの政治的な実体として現在のウクライナ領域が形成されたのはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国[2]へのクリミア半島の統治権の移管が行われた1954年です。よってウクライナ史は単にロシアとソビエト連邦だけはなく、中央・東ヨーロッパと黒海地方とも密接に関係しているのです[3]
歴史的に大部分の現在のウクライナ領域は16世紀にポーランド・リトアニア共和国上に位置し、おそらくウクライナ国家の現代の概念がそれに由来します。18世紀のポーランド分割以後、人民としての国家と話される言語としての民族は再配置されなければなりませんでした。[4] 21世紀の現在ではウクライナは過去のポーランド・リトアニア共和国の継承国家のひとつであり、そのことは近代化の影響下における過去の階級社会、土地、宗教ごとの集団の変化に起因しています。[5] 国民の概念は国家の境界の中の言語、政治、宗教がひとつであることを期待していました。[6] ゲルナーによれば、ウェーバーを引用して国家は所与の社会が秩序を保つことのできる実体であり、国民は同一の文化を共有する人々の集団であるとしています。[7] この国家と国民の定義に従い、彼はナショナリズムを「本質的に政治的集団と国民的集団は調和されるべきという政治的原則である。」及び「民族的境界は政治的な境界を横切るべきではないという政治的合法性の理論である。」として定義しています。[8] 国民とナショナリズムの関係についてウィークスはゲルナーのナショナリズムが国民を作り出すという概念の現在の大部分のウクライナ領域が位置した1914年以前のロシア帝国への適応へ賛同しています。[9] この論文が説明する20世紀のウクライナ史を振り返ってみると、ウクライナの場合20世紀の国民国家としてのウクライナの形成は残念ながらこの概念に基づいているのではなく、外部の力による人工的な生成に基づいています。ウクライナにとって西洋の国民国家の概念は別の概念ではありましたが、少なくともその概念は独立国家としてのウクライナの概念に影響を与えました。第二次世界大戦の組織的な暴力後に起こった我々が今日西ウクライナと呼ぶ領域のソビエト連邦への編入は初期の近代的な民族の概念と一致するであろうウクライナ国家を最終的に生成しました。[10] これは大量虐殺、強制移住、そしてソビエト連邦の政策のみがウクライナにおける国民国家の近代的な概念への道を開いたのであります。さらに、1954年のクリミア半島の移管はロシア人に支配されている地域をウクライナ国家に追加しました。ウクライナ人以外の影響が強い状況においてどのようにウクライナが20世紀中に構築されたのかということがこの論文の主題となります。
今日のウクライナの国境は戦争とソビエト連邦の政策の結果として20世紀に画定されました。新しい国家の建設は新しい国境に関して、特にその新国家が多民族によって構成されている場合、内部的及び対外的な問題に直面せざるを得ません。国境線の画定は内部的には強力な含有を、対外的には強力な排斥を意味します。近隣諸国との関係は大きな対外的な問題となり、少数民族との融和は大きな内部的な問題となるでしょう。さらに2004年と2007年にウクライナの近隣諸国がEUに加盟したEUの東方拡大はEU加盟国と非加盟国であるウクライナとの間に新たな境界を生成しました。ウクライナがどのように近隣諸国と均衡のとれた関係を維持していくのかということが問題となっております。本論文はウクライナが20世紀以降に経験してきた国境線の画定の影響に対して焦点を当てていきます。
本論文の目的は国家建設に対する国境線の画定の影響を研究することです。国境線の影響は現在のウクライナにどのような影響を及ぼしているのでしょうか。国境線の変更によってどのような問題が発生したのでしょうか。ウクライナは近隣諸国とどのように良好な関係を築いていくのでしょうか。ウクライナの国家建設及びその発展はどの程度成功しているのでしょうか。これらの質問に対して回答していくため、本論文では以下の題目を議論します。
図 1: 本論文の時間、領域、視点
歴史は時間と領域に関係します。本論文の時間的焦点は1917年のロシア革命以後であり、領域的焦点は現在のウクライナの国土となります。よって各章の配分は現在のウクライナの領域と国境の歴史的形成に基づきます。各章は各々の視点があります。(図1を参照のこと)
第二章は1917年の10月革命後のソビエト連邦の民族政策を通してウクライナとソビエト連邦の関係を調査することです。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国がウクライナ革命とソビエト連邦の設立の結果としてどのようにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から分離されたのかを吟味します。第二章の時間は1917年から1980年代まで、領域は旧ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の領域です。視点はソビエト連邦とその民族政策です。
第三章はウクライナと20世紀のポーランドとの関係です。ウクライナは1400万人が20世紀の中旬にヨーロッパの中央で犠牲になったブラッドランド[11]の一部であった間、ポーランドとウクライナは戦争の結果として国境線の変更を経験しました。民族浄化が国境のそばで発生しました。国境線変更と困難な過去としての変更の結果の現在のポーランドとウクライナの関係への影響を議論します。第三章の時間は1918年から1947年までと1990年代で、領域は現在の西ウクライナです。視点は20世紀のポーランドです。
第四章はクリミア半島を取り扱います。クリミア半島は歴史的及び社会的にロシア人とタタール人にとって深くなじみのある場所であり、ロシアにとって戦略的に重要な場所であるにもかかわらず、クリミア半島は1954年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国にその統治権が移管されて以来ウクライナの領域となっています。1990年代にクリミアは「発生しなかった紛争」[12] の結果としてウクライナ国家の中における自治共和国の地位を得ています。クリミアがどのようにウクライナの主権下に組み込まれ、その過程の国家建設への影響を調査します。第四章の時間は1990年代で領域はクリミア半島です。視点はクリミアの自治となります。
第五章はEUを扱います。21世紀初頭におけるEUの東方拡大はEUと非加盟国としてのウクライナとの間に新たな境界を引くことになりました。EUがウクライナとの関係をどのように定義し、どの程度ウクライナは欧州化の流れとしてのEUによる影響下で発展してるのかを分析します。EUの東方拡大はヨーロッパにおける東の境界という問いを投げかけています。[13] よって第五章の時間は21世紀初頭で領域は非EU加盟国としてのウクライナです。視点は欧州的視点から見たEUと欧州化ということになります。
本論文はウクライナを取り扱うにもかかわらず、すべて1950以降に出版された英語による文献のみを使用しています。しかしかつてレオポルト・フォン・ランケは「歴史家はより遠くから出来事を見ればよりよくそれを理解することができる」[14]と言っています。この考えに従い、私はこの距離を不都合ととらえるよりはむしろ本論文を中立的にして客観的な視点から注視することができる利点になると考えます。

図 2 2011現在のウクライナの領域, 出典: CIA The World Factbook

[1]リヴィフという都市は13世紀にガリツィアの王子ダニーロ・ノマノビッチ(1202-1264)によって建設され、彼の息子レフ(1228-1300)にちなんで名付けれらました。1992年の発掘調査より判明したリヴィフは5世紀後半以来人が住んでいた事実にもかかわらず、ラテン語の都市名はレオポリスとなっております。1387年から1722年までポーランドがリヴィフを支配し、ポーランドのルヴフはポーランド人、ルーシ人(後のウクライナ人)、ユダヤ人、アルメニア人たちの文化的中心都市となりました。19世紀にはオーストリアのレンベルクとしてウクライナ人の民族活動の拠点なりました。Hrytsak, Y. (2000). pp.47-48, 53, 56-57
[2] ソビエトウクライナの公式名称は1937年までがウクライナ・社会主義ソビエト共和国で、その後ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと変更となりました。本論文ではすべてウクライナ・ソビエト社会主義共和国と表記します。 Struk, D. H. (Ed.). (1993). p.440
[3] Szporluk, R. (2000). pp.362-364
[4] Snyder, T. (2003a). p.1
[5] Szporluk, R. (2000). p378
[6] Snyder, T. (2003a). pp.1-2
[7] Gellner, E. (1983). pp.3,7
[8] Ibid. p.1
[9] Weeks, T. R. (1996). p.7
[10] Snyder, T. (2003a). p.2
[11] Snyder, T. (2010). vii-viii
[12] Sasse, G. (2007). p.261
[13] Snyder, T. (2003a). p.293
[14] Garton Ash, T. (1999). x-xi

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...