2012年2月22日

3.8 第三章まとめ:ウクライナ・ポーランド関係史

ウクライナ民族主義者が独立国家樹立のために奮闘していた時、西ウクライナは両大戦の間ポーランドによって支配されました。ポーランド人がウクライナ人の独立運動を弾圧した事実はウクライナのナショナリズムが存在していた状況において反ポーランド感情を増加させました。戦争の結果西ウクライナにおける知識人の損失と両大戦間に醸造された反ポーランド感情は第二次世界大戦中の民族浄化に対して決定的な影響を与えました。よってユダヤ人がすでに撲滅されていたヴォルィーニ地方ではウクライナ民族主義者による政治組織はパルチザンへとなってしまい、OUNバンデラ派UPAによる民族浄化を止めることはできませんでした。
戦後、カーゾン線はポーランドから東ガリツィアを奪い、ポーランドは旧ドイツ領であった回復領を手に入れました。国境線変更の決定的な特徴はポーランドの共産主義政権は計画的なドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人の大規模な人口再配置という民族的な外科手術を強行した結果、民族的に均質な国家を作り上げることになりました。民族浄化であるヴィスワ作戦は国家によって仕組まれたプログラムだったのです。
国境地方におけるポーランド人とウクライナ人のナショナリズムに基づいた対立は民族浄化という結果になりました。しかし、現在から当時を振り返ってみるとヴォルィーニ大虐殺とヴィスワ作戦には違いがあります。ヴィスワ作戦はポーランドの共産主義政権によって実行されました。よって今日の民主政権下のポーランド人は当時の共産主義政権を容易に非難できるためウクライナ人に対してヴィスワ作戦での強制再定住を謝罪することができます。一方でヴォルィーニ大虐殺はパルチザンによって実行され、彼らは国家によってコントロールされていたわけではありません。一部のウクライナ人は彼らをウクライナ独立のために戦った英雄と見なしています。
国境線変更は国境地方における民族対立と民族浄化という結果になりました。これらの変えることのできない事実はソビエト連邦崩壊後のポーランド及びウクライナ両国の国家建設の土台を崩すものでした。これは1990年代におけるポーランドとウクライナの問題の背景にある最も深刻な理由となっています。
20世紀中にポーランドとウクライナの間で発生した一連の出来事は密接に関係しています。一方で1990年代の両国の政権は報復的措置をとることを控えました。和解の政策が両国の国家建設への道を開き、両国の関係を停滞させる困難な記憶よりも和解政策を優先させるために指導者たちは歴史の教訓から学んだのです。一方で困難な歴史は忘れ去られてはいけません。未だに困難な過去に関するポーランドとウクライナの物議を醸す議論が存在しています。一例として退任の決まっていたウクライナの大統領ユーシェンコによる2010年1月22日のステパン・バンデラ叙勲による名誉回復です。しかし一方でユーシェンコは2003年にはポーランド人に対して第二次世界大戦時の出来事について許しを乞うていました。[126]よってこのバンデラの叙勲はウクライナ東部だけではなくポーランド人からの抗議を誘発しました。[127] たとえ結論に達することができなくても過去が両国の関係の妨げとならないように、ポーランドとウクライナは将来にわたって困難な過去を議論していかなければなりません。

[126] Polonsky, A. (2004-2005b). pp.298-299
[127] Levy, C. (2010, 03 01). ‘Hero of Ukraine’ Splits Nation, Inside and Out, Cienski, J. (2010, 03 02). Why Poles cheered Yushchenko's ouster: 20th century Ukrainian nationalist Stepan Bandera still divides Poland and Ukraine.

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...