2012年2月9日

2.1.3内戦とディレクトーリヤ

中央同盟国の敗戦に直面してドイツへ依存していたヘトマンはその後の政権維持が困難になりました。ドイツ軍の撤退はウクライナ領土での権力の空白を意味し、再び赤軍、白軍、ウクライナの各勢力による内戦へと突入しました。第一次世界大戦後まもない時期に首都キエフを支配下に置いた勢力は次から次へと入れ替わりました。
1918年11月13日にヘトマンの運輸省で開催された秘密会議では社会主義者ヴィニィシェンコと民族主義者ペトリューラら5人によるディレクトーリヤがヘトマン政権を置き換えるために設立されました。12月14日、スコロパードシクィイは彼のヘトマンからの退位を発表し、ドイツ軍の合意の下ディレクトーリヤが首都のキエフへ入りました。新しい政府は12月26日に宣言と共に樹立されました。[24] しかしディレクトーリヤはボルシェビキ侵攻の危険性のためキエフからヴィーンヌィツァへの撤退を余儀なくされました。1919年1月、西ウクライナ人民共和国の勢力が合流しました。ディレクトーリヤはフランスと対ボルシェビキで協力する交渉を行いましたが、フランスがペトリューラを不適切な指導者と見なしており援助の代わりにディレクトーリヤが到底受け入れることのできない彼の退任を要求したため交渉は成功しませんでした。2月には最高指導者のヴィニィシェンコが辞任して国外へ亡命しましたため、ペトリューラはそれ以来ディレクトーリヤの権力を完全に掌握しました。[25]
ペトリューラのディレクトーリヤはもはや他の勢力の援助なしには首都のキエフに入城することはできませんでした。当初ディレクトーリヤはデニーキン率いる白軍と共闘し、1919年8月30日にウクライナの合同陸軍は白軍と共にキエフを支配下に置きました。しかし白軍がウクライナの独立を認めなかったためにペトリューラの勢力はキエフを離れることを強いられました。[26] ペトリューラの勢力がキエフを行進した二度目の試みはピウスツキの腹心でウクライナ人民共和国の内務副大臣に就任予定であったヘンリク・ユゼフスキの調整により1920年4月21日に締結されたワルシャワ条約によって実現したポーランド第二共和国とでした。[27] 対ボルシェビキ戦の最中にポーランドはディレクトーリヤと共に戦うことに合意し、ディレクトーリヤがポーランドの東ガリツィアの主権を認めるかわりにペトリューラ個人をウクライナ国家の唯一の指導者であることを認めました。このワルシャワ条約はまた東ガリツィアがディレクトーリヤの領土ではないとも定義しました。1920年5月20日ポーランドとウクライナの軍隊はキエフに入城しましたが、6月上旬にボルシェビキが反撃を開始するとその勢いはポーランドの首都ワルシャワ近郊にまで及びました。最終的にはフランスの軍事援助のおかげでポーランドはなんとかポーランド・ソビエト戦争に勝利することができました。ペトリューラのウクライナ勢力はポーランド軍の一師団として参戦しました。1920年11月20日にポーランドとボルシェビキが停戦に合意すると、ウクライナの一師団はポーランドによって武装解除されてその人員は捕虜収容所へと送られました。[28] 結局、ポーランドがボルシェビキの主権を認めたためワルシャワ条約との間に齟齬がうまれてしまったリガ条約は単にポーランド・ボルシェビキ戦争に終止符を打っただけではなく、ウクライナ人民共和国の運命にも終止符を打つことになりました。以後、ウクライナの国家建設はソビエト連邦のなかで続けられることになりました。
ここにディレクトーリヤが内戦中に政権を担当する能力があったのかという問いがあります。よってフランスのような大国がディレクトーリヤを支持しなかった事実は最終的にディレクトーリヤにとって不公平なワルシャワ条約締結となるポーランドとの軍事協力へ働きかける動機となりました。ペトリューラの役割はディレクトーリヤの存在をいかなる犠牲を払おうとも維持することだったように思えます。もし彼がポーランドとの協力を控えていたならば大国はディレクトーリヤを援助できていたかもしれません。白軍の陥落後、大国は明確にボルシェビキに対する均衡勢力を必要としていましたがディレクトーリヤはその均衡勢力になることはできませんでした。ポーランドとは異なりウッドロー・ウィルソン米国大統領はウクライナを国家とはみなしませんでした。よって孤立したウクライナの勢力はボルシェビキとポーランドという地域の列強の台頭の前に消え去りました。
ウクライナ革命の独立国家樹立への影響について、ウクライナ革命はボルシェビキに民族主義者への妥協の必要性とウクライナがロシアから分離されるかもしれないという考えを認識させました。よって成功しなかった独立国家の樹立という試みはウクライナ・ソビエト社会主義共和国としてソビエトの政治形態の中でウクライナの政治単位を作成するに至ったのでしょう。これは最も重要なウクライナ革命の成果の一つです。よってなぜ現在のウクライナがその起源をこれらの短命に終わった政府に見いだしているのかということでしょう。


[24] Ibid. pp.199-203
[25] Nahayewsky, I. (1966). pp.171-177
[26] Ibid. (1966). pp.189-192
[27] Snyder, T. (2005). p.8
[28] Reshetar, J. (1952). pp.299-316, Snyder, T. (2003a). p.140

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...