2012年2月21日

3.7 1990年代の歴史認識の不一致と和解

ポーランド第三共和国と独立ウクライナは1990年代初頭に両国の関係を構築させ始めた時、この章で見てきた民族浄化について議論することは不可避でした。
ポーランドとウクライナの代表団によって戦争中の出来事が議論された最初の会合は1990年5月に開催され、その会合は両国の和解へ道を開くはずでした。[116]1991年にポーランドの法務大臣はUPAによるヴォルィーニ大虐殺人道に対する犯罪であるとして非難されるべきであると提案しました。この提案はUPAを誇りに思うウクライナの民族活動家によって拒否されました。一方でポーランドに居住するウクライナ人は戦後の強制再定住に対する法的な保証を求めました。この要求に対して民主化されたポーランド政府は1947年に共産主義政権によって実行されたヴィスワ作戦について謝罪しました。民主的なポーランドの上院は1990年にウクライナに対して1947年の民族浄化を容易に謝罪することができた一方、ウクライナは1990年6月にポーランドに対して1943年の民族浄化を謝罪することはできませんでした。当時ポーランド大統領であったヤルゼルスキは1947年のヴィスワ作戦に参加した将校のひとりでした。[117] ウクライナ・ソビエト社会主義共和国においてウクライナ民族主義者組織(OUN)とUPA活動家はブルジョワ民族主義者とナチスの協力者としてみなされました。そしてソビエト連邦崩壊後は対照的に、主に西ウクライナ出身の急進的な右派と中道右派の政党はOUNとUPAを英雄的な組織でありウクライナ国家における不可欠な部分として美化しました。UPAがウクライナ内でどのようにとらえられるのかは物議を醸す問題でした。[118]
この不一致について、スナイダーは以下の論理的な問題を指摘しています。ヴィスワ作戦は共産主義者によって実行されましたが、1990年代の民主化されたポーランド政権には共産主義者は政権にはいないため容易にポーランド人によって非難されることができました。その一方でヴォルィーニ大虐殺はウクライナ樹立を望んでいた民族主義者によって実行されました。1990年代の独立国家ウクライナで指導的役割を担っていた民族活動家にとって戦時中の民族主義者を非難することは容易なことではありませんでした。[119]
和解の難しさに直面して1990年代半ばにポーランドで1918年から1947年の歴史を共有することを試みる共同プロジェクトが組織されました。ポーランド人とウクライナ人の歴史家がそれぞれの解釈を交換してポーランドとウクライナとの間の相違を積み上げた「ポーランドとウクライナ:困難な問題」という一連の論文を出版しました。プロジェクトの結果は両者が歩み寄ることができないという論争を明らかにしたことです。[120]
1992年5月のポーランド・ウクライナ条約はポーランドがウクライナにとってより重要なパートナーであることをウクライナに納得させるものでしたが、1940年代の論争は避けた内容になりました。この条約はどのように歴史的論争が異なった見解を表しているのかを露呈させました。1993年と1994年の両者の問題となっている論争においての関係は宙に浮いた状態でした。1995年からウクライナ大統領のクチマとポーランド大統領のクワシニェフスキは公式なウクライナ・ポーランドの歴史的和解を組織しました。この先導は1997年5月にキエフで締結された和解宣言をもたらしました。その宣言はヴォルィーニ大虐殺とヴィスワ作戦を含むポーランド人とウクライナ人の両者によって行われた過ちを明記した内容となり、互いに許しあうことを訴えました。1918年から1919年にかけての西ウクライナ・ポーランド戦争で従軍したポーランド人兵士が埋葬されているリヴィフの墓地と1940年代にウクライナ人が投獄されていたポーランド・ヤヴォジュノの強制収容所を含む歴史的に重要な場所を両国の大統領は訪問しました。[121]
1997年の和解宣言に対する両国の世論の反応はこの政治的決断を熱狂的に支持するものではありませんでした。ポーランドではヴォルィーニ大虐殺が適切に強調されていないという世論のため和解宣言は冷ややかに受け止められました。ウクライナでの和解宣言に対する沈黙は西ウクライナ以外の地域での世論がこの問題に対して取るに足らないということを説明しました。ウクライナにおけるポーランドのイメージは肯定的であるのに対してポーランドにおけるウクライナのイメージは否定的でした。[122] 1990年代後半、ポーランド人の記憶はヴィスワ作戦をヴォルィーニ大虐殺に結びつけており、ポーランドの世論は他のどの隣国よりもウクライナを恐れていました。[123] ポーランドではヴォルィーニ大虐殺は国民的問題であった一方でウクライナでは主に西ウクライナとキエフ出身の知識人によって議論される問題でした。[124] 和解宣言とそれぞれの出来事自身に対する両国の態度には政府と世論の間に温度差があったのです。
政治的な見地からすると両国の政府は将来にわたって困難な過去を議論し続けるべきであるが、困難な過去を政治の舞台裏へ持って行く必要がありました。ウクライナが1990年代に国家建設に奮闘していた一方でポーランドは国家の利益は歴史的な不一致よりも優先されるという欧州的規範に基づいてウクライナとよい関係を築くことを努めました。ポーランドはEUやNATOなどの西側の機関へ統合される準備の整った成熟した国家であるということを西側諸国に認識させるため、ポーランドは堅実に中立的な立場に立ちました。[125]
政治的利益のために両国の政府は合意に達することのできない困難な歴史よりも政治的和解に優先権を与えました。政治が和解に道を開くかもしれない現実的な立ち位置に足をとどめたことは注目に値すべきことです。

[116] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.37
[117] Snyder, T. (2003a). pp.262-263
[118] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.41
[119] Snyder, T. (2003a). p.263
[120] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.44
[121] Snyder, T. (2003a). pp.264,287
[122] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). pp.44-46
[123] Snyder, T. (1999). p.116
[124] Kasianov, G. (2006). pp.251-252
[125] Snyder, T. (2002). p.57

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...