2012年2月16日

3.2 ポーランド第二共和国における東部国境地方

第一次世界大戦後の新しいポーランドは多様な民族によって構成されてい ました。ポーランド語話者は全人口の約66%を構成し、その他の人口としては15%がウクライナ人、9%がユダヤ人、5%がベラルーシ人、2%がドイツ人 でした。ドイツ人とユダヤ人は都市部の豊かな中産階級を構成した一方、ウクライナ人とベラルーシ人は主に東部の県に居住して貧しい小作人でした。[82] 東部国境付近をみてみた場合、ウクライナ人が人口の大多数を占めていたにもかかわらず、ポーランド人は都市部における人口における最大の集団を構成してお り、社会的・経済的に豊かな地位を得ていました。[83] そのため、人口配置における状況でポーランド人は東部地方での政治的影響力を享受していました。
1918年にポーランドが独立した際、ウクライナ人も独立国家を設立しようとしていました。西ウクライナ人民共和国(ZUNR)は 1918年11月から1919年7月の9ヶ月間、ポーランドとウクライナ人民共和国の間の東ガリツィア地方に存在していました。この民族運動は完全に新し いポーランド共和国と対立していました。しかし上記の人口配置と社会的地位の状況に示されるように、ポーランド人が状況を有利に進め、最終的に西ウクライ ナ人民共和国のすべての領土を征服しました。[84] 西ウクライナ人民共和国の陥落後、その地方は社会的動揺が広がりました。ウクライナ人は東ガリツィア地方におけるポーランド共和国の主権に抵抗しましたた め、一連のテロリズムが東ガリツィア地方に広がりました。国際赤十字は1919年11月2万人のウクライナ人がポーランドの強制収容所に収容されたと報告 しています。[85]大国のひとつである英国はポーランド政府に対して東ガリツィア地方への自治が与えられるべきと要求しましたが、ポーランドはそのこと に乗り気ではありませんでした。1922年11月にポーランドが国政選挙を行った際、共産党以外のすべてのウクライナ人の政党が選挙をボイコットしまし た。 しかし大国はその選挙結果を黙認したため彼らは暗に東ガリツィア地方におけるポーランド政府の統治を認めたことになりました。[86]
1951 年、亡命ウクライナ人民共和国の勢力は合衆国国務長官への陳情書の中でポーランド統治下における状況を以下のように表現しています。ポーランド政府はウク ライナ人を民族社会として公式に認めず、ウクライナ人という名称を使用することを拒否しました。そしてポーランド政府はウクライナ人社会を消滅させる目的 でウクライナ人に対してルテニアボイコレムコフツーリシュチナポリシュフク、オーソドックスというような異なる名称を与えました。さらにポーランド政府は東ガリツィア地方の名称をその地方のウクライナ的特徴を隠すために東小ポーランドと変更しました。[87]
もうひとつの東部国境地方であるヴォルィーニ地方で は、共産主義者によって反ポーランド活動が実行され、その地方に動揺が広がりました。1938年にポーランド共産党は解体されましたが、ヴォルィーニ地方 における共産主義は1930年代を通じて広く支持されていました。1935年から1937年にかけてポーランド全体に対するヴォルィーニ地方の共産主義者 による犯罪件数の割合は11.6%から39%へと増加しました。[88]ポーランド政府は両大戦間の時代、民族主義者だけではなく共産主義者への取り締ま りに奮闘していました。
その時代、ポーランド政府は東部国境地方における主権の確立にやっきになっており、ポーランドへの脅威となりうるウ クライナ人の自治を恐れていました。「ウクライナ人の立場からすればポーランド人は旧ロシア帝国の領土内におけるウクライナ人国家建設を支持していました が、東ガリツィア地方内ではそれを望みませんでした。」[89] ポーランドの民族政策は意図的にウクライナ人の民族意識を弾圧しました。1920年代、近代化とは国家民主主義者が率いていたポーランド政府のもとウクラ イナ語話者がポーランド国家へと同化すること意味するポーランド化として理解されていました。[90]
民族自決の原則とナショナリズムに 従ってポーランドは当時多民族で構成されていた現在の西ウクライナへの主権を確立しました。複雑なポーランド東部国境に対して大国はポーランド東部国境を 定義することができず、ポーランド人は武力によって自らの国境線を画定しました。そのことは地域の民族社会に対立を引き起こすことになりました。よって両 大戦間の時代、現在の西ウクライナはポーランド人によって支配され、その強硬な民族政策によってウクライナ人の社会的状況は悪化して反ポーランド感情が醸造されました。

[82] Ibid. pp.119-120
[83] Davies, N. (1981). p.508
[84] Ibid. p.508
[85] Ukrainian Information Bureau. (1951). p.8
[86] Cienciala, A. M., & Komarnicki, T. (1984). pp.202-206
[87] Ukrainian Information Bureau. (1951). p.9
[88] Snyder, T. (2005). pp.143-145
[89] Davies, N. (1981). p.508
[90] Snyder, T. (2005). p.61

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...