2012年2月26日

4.2 ロシア人、タタール人、ウクライナ人の各民族的由来

クリミアの顕著な特徴は前節で述べたタタール・ハン、ロシア帝国、ソビエト連邦の支配という複雑な歴史的背景による多民族構成です。「すべてのコミュニティーは同じクリミアという領土をそれぞれの故郷としています。」[139]この節ではロシア人、クリミア・タタール人、ウクライナ人という主要な3つの集団に焦点を当て、彼らがそれぞれのコミュニティーをクリミアでどう理解しているのかを人口統計上の変化と共に見ていきます。
2001年の国勢調査によるとロシア人、ウクライナ人、タタール人の全人口に占める割合はそれぞれ58.5%、24.4%、12.1%となっています。[140] クリミアでの問題をより複雑にしている部分はその言語的構成です。77%の人口がロシア語を母国語としています。59.5%のウクライナ人がロシア語話者ですが、90%以上のロシア人とタタール人は自身の言語を母国語としています。[141] 民族にかかわらずロシア語が支配的な言語であることはクリミアがロシアの文化に深い由来があることを示す重要な特徴です。これはクリミアの人々が民族にかかわらず一般的にロシア化されていることを意味します。
クリミアはロシア人が人口の大多数を占めるウクライナにおける唯一の地方です。[142] クリミアがロシア帝国の領土となった際、ロシア人がクリミアに定住し始め、ロシア化が始まりました。この歴史によりクリミアに対する支配的なイメージはロシア中心です。クリミアは未だにロシア帝国時代の象徴としてとらえられ、タタール人はトルコの操り人形であると誤って表現されがちです。[143] 第二章でみてきたようにロシアとしてのソビエト民族政策は意図的にロシア帝政時代の神話を利用してきました。1990年代におけるクリミアでのロシア人の民族運動はセヴァストポリ神話を歴史的正当化に結びつけて利用しました。クリミアのロシア人は彼らのアイデンティティーを栄光あるロシアの歴史とロシア自身に関連づけています。
クリミア・タタール人の歴史家は彼らの起源がクリミアにおける土着の民族集団として認識されるようにするため、モンゴル以前であることを強調します。ロシア人の見解とは異なりタタール人は1783年のロシア帝国への併合は国民的災難であったとしています。20世紀までに40万人のタタール人がクリミア半島からオスマン帝国へと移住しました。クリミア・タタール人のアイデンティティーは20世紀に作られたものです。20世紀初頭、彼らの民族意識は発達し、その故郷としての帰属意識はオスマン帝国という政治的なものからクリミア半島という領域的なものへと変遷しました。[144]第二章で議論したように、1920年代におけるソビエト連邦の土着化政策は民族的、領域的なアイデンティティーの形成へ貢献しました。 その際にソビエト政府は自治の地位をクリミア・タタール人へ与えました。この由来のためにタタール人はソビエト連邦崩壊以来土着の民族集団として認識させることを懸命に試みています。
強制移住させられたタタール人はゴルバチョフ政権のソビエト末期にクリミア半島へ帰還し始めました。[145]約3万人のクリミア・タタール人が1980年代後半にクリミア半島に帰還しました。[146] 1990年代、クリミア・タタール人は政治的によく組織されました。1991年6月、第二回クリルタイがシンフェロポリで開催され、メジュリスというクリミア・タタール人の唯一の合法的代表組織がクリミア・タタール人の国家主権を宣言しました。[147]
1917年、フルシェーウシクィイによって率いられたウクライナ人民共和国中央ラーダによる第三回ウニヴェルサールはウクライナの領域にクリミアを含みませんでしたが、20世紀初頭の当時クリミア半島には数多くのウクライナ語の話者がクリミアに住んでいました。[148] 1897年のロシア帝国での第一回国勢調査によるとタウリダにおける42%の人口はウクライナ語の話者でした。[149]タタール人のようにウクライナ人は追放や強制移住のようなロシア帝国とソビエト連邦の政策の影響を受けました。 そして1954年のクリミアの統治権の移管後初めてクリミア半島はウクライナ政府によって統治されることになりました。それ以来クリミアはウクライナ人によって統治されているにもかかわらず、歴史的観点からロシア人やタタール人と比べた場合、ウクライナ人のクリミアに対する思い入れは弱いように思えます。しかしウクライナ独立以来クリミアに対して最も強いウクライナ人の影響力はクリミアではなく中央政府のあるキエフにあります。
各民族集団は各々の歴史と思い入れがあります。クリミアは深いロシア化を経験した一方でタタール人は彼らの由来を土着化政策が実行されたソビエト初期の時代にみています。どのようにウクライナ政府が多数のロシア人とその他の民族との間でバランスを維持していくのかという民族問題はソビエト連邦崩壊後のクリミアでの政治的流動化をもたらす重要な基礎となりました。

[139] Sharapov, K. (2003). p.42
[140] State Statistics Committee of Ukraine. (2003). National composition of population: Autonomous Republic of Crimea.
[141] State Statistics Committee of Ukraine. (2003). Linguistic composition of the population: Autonomous Republic of Crimea.
[142] Plokhy, S. (2000). p.371
[143] Sasse, G. (2007). p.68
[144] Ibid, 74-76
[145] Kuzio, T. (2007). p.105
[146] Bowring, B. (2002). p.62
[147] Sharapov, K. (2003). p.44
[148] Kuzio, T. (2007). p.100
[149] Sasse, G. (2007). p.79

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...