2012年2月15日

3.1 第一次世界大戦後のポーランド東部国境線

ベルサイユ条約はポーランドに西プロイセン(ポーランド回廊)を割譲してダンチヒ(今日のグダニスク)割譲を保留しましたが、ポーランド東部における境界線は定義しませんでした。三国協商国はポーランドの西部国境への承認を与えた一方で東部国境は三国協商国が東部戦線で勝利していなかったため解決されるべき問題のままでした。よって彼らは東ヨーロッパにおいて説明することができませんでした。[76]「ポーランドの国境に関するすべての決定事項は場当たり的でした。」[77] ポーランドの東部国境は不確定でした。
ポーランドの東部国境線画定に関する決定的な出来事は1919年から1920年のポーランド・ソビエト戦争でした。ボルシェビキは西方へと進軍していましたが、最終的にポーランド軍は赤軍を打ち負かし、1921年3月18日に締結されたリガ条約はポーランドとソビエト連邦の国境線を画定させました。ポーランドは戦況を有利に進めていたため、ポーランドは東部領域を満足して獲得することができました。リガ条約はポーランドの東部国境線画定において重要な役割を果たした一方で、その国境線は西欧列強には承認されていませんでした。ポーランドの国境線が列強によって承認されたとき、列強は文書に「彼らの責任において」という文言を挿入することによってポーランド・ソビエト国境に関しては責任を負わないことを表明しました。[78] 列強による承認の欠如はソビエト連邦が1939年にリガ条約を破棄することに影響を与えたかもしれません。さらにウクライナ人にとってのリガ条約の致命的な結果のひとつはポーランドがウクライナ人民共和国であるペトリューラのディレクトーリヤを支持していたにもかかわらず、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国を承認したことです。[79] これはウクライナの民族主義者たちがポーランド政府によって裏切られた瞬間でもありました。
一方でデービスが「リガ条約が効果的にリトアニア、ベラルーシ、ウクライナをその土地に住む人民の意向を確認することなく分割したことは忘れられるべきではない」と強調しています。[80]国境線画定において民族分布的な一面は考慮されることがありませんでした。 第一次世界大戦後のポーランド東部国境付近にはリトアニア人、ベラルーシ人、ウクライナ人が住んでいました。東ヨーロッパの小さな国民国家における理想的な独立とは民族自決の原則によるものでしたが、民族構成に基づいた国境線を東ヨーロッパで線引きすることはほぼ不可能な状態でした。ポーランドの東部国境はその困難さを表現するよい例であり、デービスは「1918年から1921年におけるポーランド国境の画定はヨーロッパ近代史における最も複雑なエピソードのひとつである」としています。[81]

[76] Snyder, T. (2010). p.6
[77] Davies, N. (1981). p.493
[78] Cienciala, A. M., & Komarnicki, T. (1984). p.220
[79] Snyder, T. (2003a). p.140
[80] Davies, N. (1981). p.493
[81] Davies, N. (1984). p.115

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...