2012年2月12日

2.5 1930年代から1980年代におけるソビエト民族政策

ウクライナ化政策は公式に廃止されることはありませんでしたが、強制集団農場化、工業化、ロシア共産党による中産階級文化への弾圧に直面した1930年代には終焉を迎えました。
強制集団農場化とその結果は悲劇そのものでした。1927年以来ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は生産ノルマを達成していなかったため、ウクライナ共産党は1932年の穀物調達計画をなんとしても達成する必要がありました。1930年代における穀物収穫量は減少していましたが、ロシア共産党はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に対して1930年に33.3%であった穀物徴収量を1932年には42.5%にまで増加させることを強いました。[55] 結局、それは1932年と1933年に少なくとも330万人ものソビエト市民がウクライナ・ソビエト社会主義共和国で餓死した飢饉となりました。[56] 1932年6月18日、スターリンはウクライナ・ソビエト社会主義共和国で飢饉があったことを非公式に認めましたが、彼はウクライナ共産党による食料援助の要請を退けてウクライナ・ソビエト社会主義共和国における穀物徴収は予定通り実行されるべきとしました。[57]
1932年12月14日、ロシア共産党中央委員会は民族主義者がウクライナ化を隠蔽として利用することに対する警告を発令しました。1933年1月、パベル・ポスティシェフが穀物徴収を予定通り実行し、民族主義者による反革命活動に終止符を打つためにウクライナ・ソビエト社会主義共和国の第二書記として任命されました。ウクライナ化からの非公式の撤退が1933年に開始しました。彼は525人中327人の地方党書記を罷免し、ウクライナ化の支持者を弾圧しました。1933年には約十万人もの共産主義者がウクライナ共産党から追放されました。1930年代初頭、政府は少数民族における土着化を制限し、著名な知識人を粛正しました。人口の10%ほどを占める最大少数民族であったロシア人だけがこの民族粛正から逃れることができました。ウクライナ化政策の後退はウクライナにおけるロシア文化の存在感を強めることになりました。[58]
この政策変更の結果として、1930年代はウクライナ・ソビエト社会主義共和国におけるウクライナ語の出版に大きな減少をもたらしました。10年間でウクライナ語の本のシェアは79%から42%へ、ウクライナ語の新聞は89%から69%へと減少しました。ウクライナ語で勉強する学生の数は1932年の88%から1939年の82%へとわずかに減少しました。1938年のすべての学校におけるロシア語学習の必修化はソビエト連邦がすべてのソビエト構成共和国における共通語をロシア語にしたことを意味するものでした。[59]
スターリンによって行われたこのウクライナ化からロシア化への一連の過程は大ロシア優越主義とブルジョア民族主義というふたつの逸脱がすべての国民とその言語は平等であるが民族主義はブルジョアイデオロギーであるというレーニンによる民族政策を実行する過程で共に存在したことによって説明することができます。[60] 1920年代、ウクライナ化政策はウクライナ共産党における民族共産主義者の存在感を強化しましたが、彼らはブルジョア民族主義というレッテルを貼られました。さらにウクライナ化の前提条件は知識人が国民文化と政治を分離することができたため、ウクライナ文化の承認はウクライナ政府へのいかなる支持を示唆する必要はなかったのです。[61] スターリンのロシア化への傾向に際して彼らは大粛正の標的となったのです。よって大ロシア優越主義の再生は1930年代に生まれたのです。
マーティンはソビエト民族政策は民族主義に対して懐柔するがそれは国民国家の典型的なモデルを採用しない形式を構成共和国へ保証するというアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置、肯定的差別)戦略であるとしています。[62]ソビエトの構成共和国は独立国家の形態と忘れられていることを強要される状態のいずれになることも許されませんでした。[63] 実際、大ロシア優越種主義は地方の民族主義よりもより危険であるとレーニンは見ていました。[64] 彼は大ロシア優越主義をロシア帝国における民族問題であったロシア問題として見なしており、彼自身の政策の中では大ロシア人とウクライナ人は別の国民であると認識していました。[65] よってウクライナ化の後退と大ロシア優越主義はロシア帝国主義の一面を帯びているように見えます。[66] ソビエト連邦におけるロシアの優越はこの時期に設立されたのです。
ウクライナにおけるウクライナ化の後退とロシア優越の存在感は第二次世界大戦後にもスターリン政治体制の残留品として継続しました。[67]第三章でみるように、スターリンは第二次世界大戦でのウクライナ人の背信を確信しました。 そして彼が1945年に対ナチスドイツへの勝利を祝った際には「ロシア人」へと乾杯しています。[68] これはウクライナを含むすべての構成共和国に対するロシア人の優越性を表しているといえるでしょう。
1953年のスターリンの死後、1958年から1959年にかけてのフルシチョフによる改革の際にウクライナ語の地位に関する議論が起こりました。しかし言語問題を主張した「1960年世代」という知識人の逮捕と1972年初頭のシェレストからシチェルビツキーへのウクライナ指導者への交代によって改革は停滞しました。シチェルビツキーと彼のイデオロギー担当の書記はウクライナ語の支持者を弾圧する文化プログラムを実施しました。[69]
第二次世界大戦後の継続的なロシア化の結果として、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は教授言語としてのウクライナ語で勉強する生徒の割合の劇的な減少を経験しました。言語的なロシア化はウクライナ・ソビエト社会主義共和国でベラルーシ・ソビエト社会主義共和国の次に最も成功しました。ウクライナ語で勉強する生徒の割合は1956年から1957年にかけては74%でしたが、1988年から1989年には47.5%と26.5%も減少しました。この傾向はウクライナ・ソビエト社会主義共和国における東部と南部において顕著であった一方、戦後にウクライナへ組み込まれた西部ではわずかに減少しただけでした。[70] ウクライナ語の占有率は46%から19%へと減少し、ウクライナ語の本の割合は1970年代に49%から24%へと減少しました。[71]
スターリンと彼の後継者:フルシチョフ、ブレジネフアンドロポフチェルネンコはロシア国家の概念を操り非ロシア人のロシア化を推進しました。当局によって作り上げられたプロパガンダは「偉大なロシア人」へと焦点を当て、その「ロシア」という意味合いは非ロシア人を侮辱し、多くのロシア人を困惑させました。しかしロシア国民、ロシア文化、ロシアの歴史は当局が目標を達成するために操作されていました。ロシア人は非ロシア人と比べて文化促進の分野で効果的に表現するため、雑誌、学術機関、劇場、出版物などの必要なインフラ上での特権を享受しました。Szporlukはこの現象を「ロシア文化の脱ソビエト化」 と表現しました。[72] ソビエト連邦は他国を植民地化はしませんでしたが、スターリンによる一国社会主義の政策はロシアの「国内植民地」としてソビエト連邦における非ロシア人の地域を搾取しました。[73] ソビエト連邦の民族政策はロシア帝国時代の概念に逆戻りしてしまい、それはレーニンが望んでいたものではありませんでした。最終的にソビエト連邦はその民族政策において「ロシア」そのものとなってしまい、よってウクライナは厳しいロシア化を経験しなければなりませんでした。これは1930年代以降のソビエト連邦とウクライナの関係における顕著な特徴です。Szporluk はロシア帝国時代の意識と帝政ロシアの遺産はソビエト末期のウクライナ・ロシア関係において明らかで、帝国時代の意識はロシア帝国崩壊から70年後のソビエト連邦でも健在であったと結論づけています。[74]よってソビエト連邦の民族問題はロシア問題であり、すなわちそれはレーニンが1920年代に既に認識していた大ロシア優越主義の問題でありました。[75]

[55] Liber, G. O. (1992). pp.164-166
[56] Snyder, T. (2010). p.53
[57] Ibid. pp.34-35
[58] Yekelchyk, S. (2007). pp.112-114
[59] Ibid. p.116
[60] Farmer, K. C. (1980). pp.40-41
[61] Snyder, T. (2005). pp.54-55
[62] Martin, T. (2001). pp. 3, 18
[63] Snyder, T. (2010). p.11
[64] Martin, T. (2001). p.7
[65] Szporluk, R. (2006). pp.612-613
[66] Blitstein, P. A. (2006). p.293
[67] Farmer, K. C. (1980). p.43
[68] Kuromiya, H. (2007). pp.719-720
[69] Solchanyk, R. (1990). pp.177, 187
[70] Janmaat, J. G. (2000). pp.108-110
[71] Yekelchyk, S. (2007). p.173
[72] Szporluk, R. (1990). pp.12-13
[73] Kuromiya, H. (2005). p.86
[74] Szporluk, R. (1990). pp.19-20
[75] Szporluk, R. (2006). p.620

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...