2012年2月11日

2.4. 1920年代のソビエト民族政策下でのウクライナ啓蒙運動

内戦が終結するとソビエト連邦及びウクライナ・ソビエト社会主義共和国の建設が実行されなければならなりませんでした。新経済政策(NEP)とウクライナ化政策は国家建設の重要な柱を構成しています。
内戦中ボルシェビキは緊急計画として強制徴収を強いる戦争共産主義政策を採択しました。新経済政策は1921年3月に発生したクロンシュタットの反乱に直面した際に導入されました。新経済政策下において小作人は政府に固定の税金を支払い、超過分の生産物は市場経済で循環させることができました。民間部門の再生を推し進めた新経済政策はよく機能して1927年までにウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国民総生産は第一次世界大戦以前の水準にまで回復しました。[46]
1919年から1923年までボルシェビキはロシア以外の地域での構造的問題への解決策を模索しました。目標はほとんどが小作人で構成されていた大衆にとって共産党を身近な存在にするため、地元の言語による文化機関を発展させ、地方の社会的な不平等をなくすことでした。さらに地元の労働者階級と小作人をソビエト体制へ組織・勧誘する必要がありました。民族問題への解決策は1923年4月の第十二回ロシア共産党大会で採択されました。その決定事項は地元の人々は近代化され、無産階級化され、労働者階級の意識を受け入れ、ソビエトの指導により抵抗のない状態にすることでした。この過程での自然な進化を促すため、非ロシア人地域で機能するすべての政府機関で母国語の使用を保証する法律が制定されました。ロシア共産党はロシア人と非ロシア人との関係を再度交渉する必要があったため、非ロシア人の文化を支持することをもくろみました。[47]ソビエト体制での民族はソビエトの市民としてソビエト計画を受け入れることとされていました。[48]ロシア共産党によって練られたこの非ロシア人への民族政策は土着化(Korenizatsiia)と呼ばれ、この土着化はソビエト時代初期の識字率の低さ、経済発展の遅れ、文化的発展の遅れ、ロシア化された都市と非ロシア人の田舎との間の緊張関係という社会の構造的問題を解決することを目的としました。これらの手段は各々の問題を解決するために実行されなければなりませんでした。[49]
土着化に従って、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内でもこの政策が実行されなければなりませんでした。ウクライナでの土着化の実行はウクライナ化と呼ばれます。このウクライナ化という用語は「1923年と1924年にウクライナ共産党によって遂行された国家の横顔と党の機関を世に広めウクライナ人の目によってソビエト支配を正当化する一連の政策あり、ウクライナ化は土着化のウクライナ版です。」[50]
1923年4月4日から10日にかけて首都ハリキフで開催されたウクライナ共産党の第七回党大会でウクライナ化政策は公式に採択され、ウクライナ化に関する最初の法令がウクライナ共産党の中央委員会決議として1923年6月22日に発行されました。それは扇動とプロパガンダを行う多くの機関、特に地方、ウクライナ語によるマルクス文学の普及、学校教科書のウクライナ語への翻訳の分野においてウクライナ化を実行に移す段階を取り決めるものでした。さらに大学でのウクライナ研究、地方でのウクライナ語の新聞、地方へのウクライナ語を理解する公務員の派遣も要求しました。一連の決議に基づいてウクライナ・ソビエト社会主義共和国はウクライナ化についての最も重要な法令を1923年8月23日に発効しました。それはすべての公務員がウクライナ語を習得すること、ロシア語を含むウクライナ語以外の言語の使用は認められるものの政府の文書と口頭における作業言語をロシア語からウクライナ語へ徐々に切り替えていくことを義務づけるものでした。[51] 実際にレーニンは学校と官庁でのウクライナ語の使用を支持していました。[52]
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内でのウクライナ化政策の効果について、その実行は二つに分類することができます。最初のひとつは政治と経済の分野でのウクライナ語の使用を導入する試みです。そして二つ目は授業、ウクライナ語で書かれた本や新聞の配布、コンサートや映画の上映会の開催などを行い、ウクライナの文化と言語を広める努力です。人々にウクライナ語を義務とすることを正当化するのは国家機関のみが義務づけられていました。[53]
1925年時の2割と比べて、1927年までに7割のビジネスと政府機関でウクライナ語が話されるようになりました。1927年ウクライナ人の党と公務員で占める割合は5割以上に達しました。1929年までには83%のすべての小学校、66%の中学校がウクライナ語を教授言語とするようになりました。97%のウクライナ人はウクライナ語が使用される学校に入学しました。それにもかかわらず、高等教育機関では初等教育機関よりも遅いペースでロシア語の置き換えが進みました。1928年までにたった42%の大学生が教授言語としてのウクライナ語で勉強しました。1931年と1932年までには市場に出回っている75%の本がロシア語で書かれていたにもかかわらず、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の88%の定期刊行物と77%の本がウクライナ語で出版されました。1927年までに識字率は1897年の非識字率28%と比較して、都市部で70%以上、農村部で50%以上という記録的な高さを記録しました。[54]
ソビエトの民族政策の究極の目的は非ロシア人の共和国におけるソビエト政府の統治を強化することであったにもかかわらず、土着化とウクライナ化の結果としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国で起きたことは近代国民国家建設の基礎となる国民文化、教育、行政の分野におけるソビエト政府によって支援された国家建設の発展でした。この時代、多くのウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の人々が自身をウクライナ人として自覚し始めることになったのです。 これはウクライナにおける啓蒙運動と言うことができるでしょう。その一方で政府、党におけるウクライナ化の結果はロシア共産党と親ロシア勢力が逸脱者と見なし始めた民族共産主義者と呼ばれる民族主義的な党員の増加をもたらしました。

[46] Yekelchyk, S. (2007). pp.86-88
[47] Liber, G. O. (1992). pp.34-36
[48] Snyder, T. (2010). p.85
[49] Liber, G. O. (1992). pp.36-37
[50] Struk, D. H. (1993). p.464
[51] Liber, G. O. (1992). pp.42-43
[52] Borys, J. (1980) p.123
[53] Krawchenko, B. (1985). pp.79-80
[54] Yekelchyk, S. (2007). pp.93-94, 99

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...